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2007/09/16

NOという言葉

 テレビ新聞などのメディアでは、次期自民党総裁の話題で持ちきりですが、安倍政権の総括は充分にされたのでしょうか。「のど元過ぎれば・・・」風に、何の教訓もなく、おなじことの繰り返しというのでは、あまりに情けなく思います。批判は行くべき方向性を見つけるためにするのであって、異なった意見のものを蹴り落とすためにするのではないはずです。安倍さんがやめたから、おわり、というのでは、批判自体が自分に跳ね返って来てしまいます。批判する方も批判される方も相対化されて、「正しい」という理念が見えてこなくなります。批判すること自体が、不毛な戯れになってしまうわけです。

 具体的な細部に話題を限れば、一番、安倍政権で痛かったのは「主権者であるはずの国民の不在」ということでしょう。ですから、始めに次期総裁選報道ありき、では「なんだ、メディアも同じじゃないか」ということになります。「読者が知りたがっていることだから」「話題性があるから」という理由で、報道するのでしょうが、国民の意思が反映した事がらは、まだ始まっていない政策に対する期待にあるのではなく、現に起こった一連の退陣劇の方にあります。それは、国民自身も意識していないことかもしれません。
 読者、メディア共に「旬」「はやり」だけ追う姿勢が、言説の空洞化を産み、その空洞化の象徴として、空虚な言葉を用いる首相が担がれることになります。
 小泉さんの「三位一体改革」も、言葉にされたことと内容の食い違いで、賛同した地方自治体が煮え湯を飲まされたという話を聞きます。そういうものが、参議院選挙の自民党敗北につながったという分析も聞きました。また「国益」という言葉にしても、「国民の利益」の意味と混同して賛同した国民が、たとえば「御手洗ビジョン」のような方向で不利益を被るというようなことになりかねない状態です。
 安倍さんと小泉さんは「空虚な言葉の光と影」という点でも、直系の総理だったのかもしれません。

 国民が政権に「NO」を突きつけたのは、その「空虚な言葉」そのものに対して、でないかと私は感じています。もしそうであるなら、そこからの脱却の可能性を探ることが、我々が今しなければならないことではないでしょうか。

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